まためんどくさくなった

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ケータイ小説とは既に死語になったものだが、雰囲気はそんな感じだった。
自分がこんな、半ニートになるとは思いもしなかった。
大学生って、何だ。

小学校6年間を中学受験塾に通うことに費やし、中高で様々な分野で活躍して羽ばたいていく学生を横目に大衆的娯楽に没頭し、浪人して落ち武者のごとく、在学した高校の「普通」や「平均」とは違う進路に赴く。
大学においても、身の振り方を知らずして、サークル、恋愛、ゼミ選択等様々なことに挑んでは、失敗を繰り返す。失敗は良い事だ、という一般論はあれど、取り返すことのできない失敗ばかり。
そうしてたどり着いた先が、4年で卒業できるかも怪しい3年生の春学期であった。

"コロナ禍"は千載一遇の好機であるはずだった。社会が「失敗」を共有する出来事であった。全員が失敗したのであれば、巻き返せる可能性が生まれるはずだった。
しかし実際にそこにいたのは、社会の失敗を嬉しみながら、あいもかわらず自己の動物的・刹那的欲求に溺れ、堕落し、善く生きるための力を何も産み出さない何かだった。


そんなヤツが文章を書く主体とあっては、話の幅も広がってこない。ひたすら自己の価値を卑下するだけならば冗長に単語を綴っていくことはできるが、そんな悲観的文字の羅列は世の中に溢れている。
考える。結局、今までになかったもの、もしくは形式こそ引き継いでいようが今までより優れているものにしか価値は無いのだ。

そうだ、創作物の「価値」を考えよう。
「少数の人間」にとって、どれだけ優れた表現をしたとしても、それに価値があるとは言い難いのは歴史が証明しているところである。大多数を納得・共感させなければ、それだけ価値は薄くなる。数は力だ。しかし、大衆の考え方・気持ちを理解できているのであれば、こんなことには成っていないのだ・・・。

――自虐に戻るのを止めよう。価値と大衆の話だったな。
しかし、当たり前の事をつらつらと書いているだけでは、(よほど文体が優れていない限り)これまたやはり価値がある(≒人気が出る)とは言い辛い。
ストーリーが必要になってくる。知り合いが「本当の自分」や窓際族、池井戸潤の話をしていたが、共感できるストーリーを描くのは一つの手なのであろう。